地方理系大学院生の雑記

地方国立大の理系院生です。思ったことを書きます

「あのひとは幸せだ」というけれど、幸せかどうかは本人しかわからない。

 後輩ふたりと昨日吉野家で牛すきをたべたときのこと。

 

後輩たちは、就活でインターンシップと選考でせわしない。自己分析で自分がなにものか、なにがすきなのか、どういった職があっているのかと色々と悩んでいるようだ。

一人の後輩は大手ゼネコン志望だという。彼は大きな建物に関与したいと考え、給与も高いその業界にアプローチしている。

もうひとりは、コンサルか広告でばりばり働きたいと考えていて、もうすでに早期選考で内定を一つとったという。

二人に共通していたのは、自分がなにをしたいかが明確なことだ。上から目線になるが、自分で考えながら人生を歩んでいる印象がある。

しかし、きになったのが彼ら二人は、

「年収1000万はひとつの目標だ」「自分が内定したところは、初任給30万なんですよ。でも絶対ブラックです」

と、お金をとても主張していた点だ。

といっても、お金はとても重要だ。なければ生活はできないし、自分のためのお金をけずらないといけないようでは、心と体がもたないと思う。そこは自分もわかっている。

ただ、彼らの軸にはお金が大きく存在している。1000万の生活。お金がたくさんある生活。理想を追い求める。

人間はどこまで行っても欲深い生き物だ。お金を稼いでも稼いでも満足することはない。お金が主軸になっているようでは、お金にのみこまれ身をほろぼすのではないか。

こんなことを考えている自分は年収1000万を稼いだことはない。けれど、お金を稼げば稼ぐほど、それで得たお金というのはそこに費やした時間であると言える。

 

 

 

 

 

話は変わるが、

幸せは、様々な要因が毛糸のかたまりのようにからまって構成されていると思う。なにをもって幸せかどうかは、もはや当の本人にもわからないくらいに。だからこそ人は幸せの価値基準として、他人と比較することでしか幸せをつかむことはできない。

そのひとつとして、お金が存在する。なぜなら、大体の人間はお金を稼ぐし、データとしても日本の平均年収というものがあるからだ。

しかし、幸せの成り立ちを考えると、その平均より高ければ幸せという単純なものでは幸せは成り立たない。もしそうやって成り立ったものは、もろいしはかない。

 

こう考えると、自分の幸せはなにをもって幸せかは今もわからない。はっきりと定義することはできない。他人のことをみて、「あの人は幸せそうだ」という人がいるが、

結局のところ、幸せかどうか当の本人しかつかめないのであると思う。

 

まるで、幸せの呪縛だ。

幸せをつかみたいと人は願うのに、それを追い求めていくうちに知らず知らずのうちに幸せに呪われてしまっているのである。