過去の記憶は都合のいいものでしかなく、いくらでも改編可能な物語となる。
昼寝をして寝付けない夜は、あたりまえだが目を閉じている時間が長くなる。
そうやって目を閉じると、脳内で保存されている過去の記憶と次第につながっていく。
自分が過去にやった失敗ばかりがフラッシュバックし、あのときこうすればよかった、ああすればよかったなど、どうしようもならないことばかり思い返してしまう。
そこで問題なのが、過去の記憶もただしく保存されているわけではなく、時が経つにつれ過去に経験した出来事があいまいになり、次第に輪郭すらもつかめなくなって記憶の実体が欠けて保存されるということだ。
ということは、今自分が思い出しているのは、そうした輪郭すらもつかめなくなった実体のない記憶を思いだし、ああでもない、こうでもないと言っているのではないか。
そうして思い出されたものは、いくらでも改編可能な現実とかけ離れた虚構でしかない。
ここまで、過去の記憶を思い出しながら、自分の失敗に思いを馳せることは無意味であるといいながらも、
人間は自分で作り上げられた虚構の物語と向き合いつつ、前に進んでいくしかないのかもしれない。
過去の経験自体は、今の自分を作る栄養素のようなものでそれが今の言動に現れてくるわけだから、
そうして自分で作り上げられた虚構の物語と向き合う事自体が、自分と向き合う事になり、新たな発見もできるのかもしれない。
最近、白石一文さんの小説をよみつつ、こんなことを考えた。